眼球と旅する男
長い坂を登ると広場に出た。そこは展望台になっていて小さな茶店といくつかベンチ、それに有料の望遠鏡が据えてあって幾らかの硬貨を入れると覗けるようになっていた。冬の日も翳り始めた広場に人はまばらで観光客らしい家族連れと一組のカップルが景色を眺めたり、ベンチに腰掛けて暖かい飲み物で冷えた体を温めたりしていた。

私はなるだけ景色の良いベンチを選んで腰掛けた。目の前の手すりの先には日本海が広がっていて、凪いだ海に夕方の日差しがきらきらと照り返していた。少し寒かったけれど、風はなく良く晴れた空は赤く染まっていた。外套のポケットから小箱を取り出して膝の上に乗せて、ゆっくりとその蓋を開ける。

箱の中にはつんとした匂いのする培養液でひたひたにされた脱脂綿が詰められていて、その真ん中にはぬらりと光る小さなの目の玉が据えられている。反対側のポケットから薄手のゴム手袋を取り出して、両手にはめると、私は慎重に傷をつけないようにその眼球を取り出して、目前の景色が良く見えるように眼球を持った手をかざしてやる。夕日に映える海を見て眼球はその瞳孔をゆっくりと収縮させる。

私には妹が一人居た。幼い頃より病弱であった妹は物心つく前より入院生活を余儀なくされていた。薄暗い病室のベットの上だけが世界の全てであった妹の望みは、いつの日か自分の目で海や山といった書物や写真でしか知らない光景を見ることだった。しかし、妹はその望みを叶えることなく生涯を終えてしまった。

妹は死ぬ間際、ただ見ていることしか出来なかった私に、「私はもうぢき死んでしまいますけれど、生まれてこのかた一度もそとの景色を見ることがなかったのが心残りです。ですから、お兄さん。私が死にましたら私の目の玉を取り出して、せめて私の目にだけでも海だの山だのといったそとの景色を見せてやってはくれませんか? 私の目が見た光景はきっとあの世の私にも見えることでしょう。後生ですからお兄さん、妹の最後の我侭を聞いてやって下さいませ。」と言い残した。

私は妹の死後、医者に依頼してその眼球を取り出してもらい、小さな小箱を誂えてその中に妹の眼球を収めて旅に出たのであった。

2003/07/08 Tue (No.038)

 

戻る

 

inserted by FC2 system