会えない恋人のはなし
今日は、私の知人のA君の話をしよう。彼は紀州の旧家の人間でね。古い血筋の所為なのかな、彼の家系には精神を病んだ者や、異形の者が多くてね。彼も若いうちから心の病を抱えていたんだ。でも、まぁ彼の場合は日常に支障をきたす程のものではなかったし、彼はなかなか優秀な人間であったから元からの事業を繁栄させて、なかなかの資産家として不自由ない暮らしをしているのさ。

さて、そのA君なのだけれど、彼の心の病というのは所謂離人症という奴さ。離人症というのは君も知ってるだろうけれど、不可思議な病気でね。時として心の中にもう一つの心が出来てしまうことがあるらしい。 A君の場合もね、Bさんとでもしておこうかな。心の中にBさんという、A君とは別の女性の心、人格が何時からともなく発生して、彼の心と共生しているんだ。普段はBさんの心は深く眠っていて表に出てくることはないのだけれど、時折、A君の心の代わりに表面に出てくることがある。その場合、肉体的にはA君のままなのだけれど、中身はBさんになってしまう。そして、これがまた不思議なのだけれど、A君はBさんのことをまったく知らないし、BさんもA君のことをまったく知らないのだ。ちょうどカードの裏表のように、A君が出てきている間はBさんは隠れていて出てこないし、 Bさんが出てきている場合はその逆という訳だ。

ここからが本題なのだけれど、そんなA君がある日自室で1冊の日記帳を見つけた。それは彼の知らない女性の日記だったのだけれど、彼は何故そのようなものが自室にあるのか疑問に思いながら、その日記を読んだのだ。私はその日記を読んでないからどのようなことが記されていたのか知らないけれど、A君は読み進むうちに、まだ見ぬその日記を書いた女性の虜になってしまった。女性関係に疎い君には、顔を見たこともない女性に恋愛感情を抱くことがあるのかと思うかもしれないけれどね、恋愛などという精神の異常事態においてはそういうこともあるものなのさ。

恋に狂ったA君は、その日記の女性に会いたくて堪らない。相当手を尽くして探させたそうだけどそれでも見つからない。そもそも、何故、その日記がA君の自室にあったのか、それすら判らない。A君は途方に暮れてしまったけれど、奇妙なことにA君の手元にあるその日記帳に、月に一二度は新しい日記が書き加えられることに気がついた。A君の知らぬ内に部屋に入ってきて、日記を書き加えているに違いない。A君は恋文をその日記に挟み込むことにした。

A君の恋文はかなり情熱的なものだったらしい。しばらくしてA君の手紙の返事が日記に書き加えられた。その、女性もまんざらではなかったのだろう。それからA君の日記の女性との文通が始まった。A君は切々と自分の心情を伝えて、何とか会う段取りを取り付けたのだけれど、約束の日時に待ち合わせの場所に出かけて行っても彼女は来ない。振られたのかと思うとそうではなくて、何故かその日の記憶が彼女にはないという。それではもう一度会いましょうと約束したのは良いけれど、何故か今度はA君にその日の記憶がない。日記には一日中待ったかれどA君は現れないのでどうなっているのか。というようなことが書かれている。その後も何度も逢引の約束はしてもどうしても会うことが出来ない。必ず、どちらかの記憶がない。これは一体どういうことなのか。と、A君も女性もそうとう神経になったけれど埒があかない。

恋に狂っていたA君も、これは相当に奇妙な話だと考えるようになった。そもそも二人の話がかみあわない。A君は知らぬ間に女性がやってきて日記を書いているのだと思っていたけれど、女性の方ではA君の方が女性の知らぬ間に女性の部屋にやってきて日記に手紙を挟むのだと思ってるようだ。これはまったくどうしたことか。

ふふっ、頭の良い君ならもう気がついているだろうけれども、A君の恋した女性は A君の中のもう一つの心であるBさんだったのさ。A君は自分の中のもう一人の自分に恋してしまったのだ。

その後のA君だけど、相変わらず会うことの出来ぬ恋人と文通を続けているらしいよ。
A君に言わせれば、会えないという障害ゆえに愛しいという想いは色褪せぬそうだよ。

2003/06/28 Sat (No.036)

 

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