年号
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年齢
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出来事
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1882(明治15年) | 4月7日、新潟県中頸城郡高田町五分一(現在高田市幸町)の士族屋敷に生れる。 本名健作。父澄晴、母千代。父澄晴は大川家より婿養子に来た。小川家は代々榊原藩の家臣。 未明出産当時、母方の祖母健在で、幼時この祖母よりお伽噺をきかされたり、将棋の手ほどきを受けた。明治維新で禄をはなれ、生活は楽ではなかった模様。 |
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1988(明治21年) |
6歳
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岡島小学校(現在大手前)に入学。父澄晴は漢学の造詣が深く、影響を受け、8、9歳頃より漢学塾に通い、剣道なども習う。 |
1892(明治25年) |
10歳
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高田尋常小学校に転入学。この頃より、父澄晴は崇拝せる上杉謙信を祭神とする神社を、謙信の古城址、春日山の中腹に創設することを念願。明治26年6月、神社創設出願書を提出し、同27年2月認可された。神社創設のための寄付金募集に奔走する父に代わって建設の進行具合、建物の雪下ろし人夫などを連れて何十回となく五智街道を往来したため、越後の自然、風物が深く頭にしみこんだ。 |
1895(明治28年) |
13歳
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高田中学に入学、気骨ある国語の教師、江坂香堂先生を識る。 |
1897(明治30年) |
15歳
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この頃一家は春日山に移る。学友に相馬御風氏、のちに理学博士になった丸沢常哉氏などがあり、同人雑誌をつくったりした。冬の雪の深い期間は高田町内に下宿して通学、暗鬱な雪国の生活をのがれて、明るく文化的な東京に出たいと思うようになる。 |
1898(明治31年) |
16歳
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佐久間象山の高弟、北沢乾堂先生、高田中学に赴任、漢文を学ぶ。漢詩を作り添削などをしてもらい、あたたかい指導をうけた。 |
1900(明治33年) |
18歳
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学校の空気にあきたらず、文芸雑誌、政治雑誌を濫読。数学ができず落第。上京の志をいだく。 |
1901(明治34年) |
19歳
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早稲田大学出身の英語の教師、喜安健太郎先生にすすめられて4月6日上京。早稲田大学予備校に入学。専門部英文哲学科より転じて大学部英文科に修学。その間恩師坪内逍遥先生の指導を受く。また、ラフカディオ・ハーンの英文学史の講義に感銘を受く。また、この頃よりロシア文学を愛読、ナロードニキの思想を好む。在学中西村酔夢、高須梅渓、吉江狐雁、相馬御風、片上天弦らと親交。先輩、友人に恵まる。 |
1903(明治36年) |
21歳
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6月「合歓の花」を「スケッチ」に発表。 |
1904(明治37年) |
22歳
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6月「帰想」、9月「故郷」を読売新聞に発表。 9月「漂浪児」を「新小説」に発表。 |
1905(明治38年) |
23歳
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早稲田文学英文科卒業。卒業論文「ラフカディオ・ハーンを論ず」。1月「鬼子母神」を「読売新聞」に、3月には「霞に霙」を「新小説」に発表、好評を得て作家的地位を確立。 |
1906(明治39年) |
24歳
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越後長岡市山田藤次郎長女キチと結婚。 早稲田文学社に入り、島村抱月氏指導のもとに「少年文庫」を編集。新しい童話運動を起こそうとして多くの童話、童謡を書く。同誌のためには童話「海底の都」、「天女の命令」、「青帽探検隊」など。このころ戸張狐雁氏の紹介で東洋経済新報社に片山潜氏を訪れる。 |
1907(明治40年) |
25歳
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長女晴代出生。6月、第一短編集「愁人」が坪内逍遥序文、竹久夢二装丁、中沢弘光口絵で降文館より出版される。また正宗白鳥氏の紹介で読売新聞社に入社、社会部の夜勤記者となる。 |
1908(明治41年) |
26歳
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新ロマンチシズムの文学研究会「青鳥会」をつくる。また「秀才文壇」の記者となる。 12月、長男哲文出生。 |
1909(明治42年) |
27歳
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雑誌記者その他全ての勤めをやめて文筆で起とうと決心する。秋、甲信地方に旅行・ |
1910(明治43年) |
28歳
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この年生活貧困をきわめ、大切にしていたラフカディオ・ハーンやメーテルリンクなどの本を売りはらい、二児も栄養不良になる。 12月、日本最初の創作童話集といわれる第一童話集「赤い船」を出す。 |
1911(明治44年) |
29歳
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代表作のひとつ「物言はぬ顔」を「新小説」に、「薔薇と巫女」を「早稲田文学」に発表。 |
1912(明治45年) |
30歳
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1月「早稲田文学」に相馬御風氏の「小川未明論」が出る。つづいて「早稲田文学」よりネオ・ロマンチシズムの先駆者として推賛の辞を受く。唯一の長編小説「魯鈍な猫」を「読売新聞」に連載。5月「北方文学」を創刊、主幹となったが4号で終刊。 |
1913(大正2年) |
31歳
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5月、次女鈴江出生・ 本間久雄氏「小川未明論」を「新小説」に書く。「近代思想」誌上で大杉栄、未明の作品を論ず。以後大杉栄氏の影響をうけ、クロポトキンのものを読み感銘をうけ、人道主義にうたれる。 |
1914(大正3年) |
32歳
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12月23日、長男哲文6歳にて死去。 |
1916(大正5年) |
34歳
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文化学会員となり、嶋中雄三氏らを知る。 |
1918(大正7年) |
36歳
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11月4日、長女晴代12歳で死去。貧困時代を共に過ごした二児を失って、悲しみ骨に徹し、はなはだしく鞭打たれる。 7月、鈴木三重吉氏「赤い鳥」を創刊し、童話雑誌の創刊もあいつぎ、未明も童話の作品がようやく多くなる。 また、この年、未明を中心にしていた文学青年の集い「青鳥会」が分裂、解散したが、その分裂した一つが雑誌「黒煙」を創刊。雑誌名は未明が命名。「黒煙」が大正9年2月廃刊になったが、その後に起ったプロレタリア文学の先駆をなした。 |
1919(大正8年) |
37歳
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著作家組合会員となり、大庭柯公、堺利彦、長谷川如是閑、有島武郎氏らと知り合う。新しく創刊された児童雑誌「おとぎの世界」をしばらく主宰し、「牛女」、「金の輪」、「北海の白鳥」などを書く。 |
1920(大正9年) |
38歳
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1月、一家親子4人流感にかかり、重体におちいる。その不幸を見舞われ、文壇諸家より「十六人集」(新潮社版)がおくられ、病後伊豆山で静養。 12月、堺利彦、山川均氏らの提唱するすべての社会主義者を包容する一大思想団体の日本社会主義同盟の発起に参加。 |
1921(大正10年) |
39歳
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2月、三男英二出生。 未明童話の代表作の一つといわれる「赤い蝋燭と人魚」を「朝日新聞」にかく。また「火を点ず」を「種蒔く人」に、「港についた黒んぼ」を「童話」に発表する。 |
1922(大正11年) |
40歳
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出版社従業員組合員としてメーデーに参加。 |
1923(大正12年) |
41歳
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6月、有島武郎、片上伸、嶋中雄三氏ほか「種蒔き社」などの発起で「三人の会」(中村吉蔵、秋田雨雀、小川未明)が開かれ、未明の「野薔薇」が朗読された。 9月、小石川雑司が谷の家で関東大震災に遭う。この頃童話の創作多し。 |
1924(大正13年) |
42歳
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日本フェビアン協会に入り、「社会主義研究」にも寄稿。 |
1925(大正14年) |
43歳
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日本小説家協会員となる。 9月、再刊された「解放」の同人となり寄稿。11月より嶋中雄三の厚意により、「小川未明選集」(小説4巻、童話2巻、未明選集刊行会)の予約出版始まる。11月、第1巻配本(平福百穂装丁) |
1926(大正15年) |
44歳
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「未明選集」完結とともに小説の筆を絶ち、専心童話にいく決心をし、5月「東京日日新聞」に、6月「早稲田文学」に声明。 春日山の実家、神社のあとをつがせるため夫婦養子をむかえる。3月、四男優出生。同志と日本無産派芸術聯盟を組織す。「薔薇と巫女」アメリカで英訳出版され、日本でも好評を博す。「日本童話作家協会」創立に参加。 |
1927(昭和2年) |
45歳
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1月「未明童話集」第1巻、丸善株式会社より出版される。童話の集成で豪華な本、全5巻、昭和6年7月完結。この年の春、「日本児童文庫」出版記念講演のため京阪におもむく。 夏、春日山の実家火災にかかる。 秋、無産派芸術聯盟の同志らと伊勢山田で文芸講演をなす。 |
1928(昭和3年) |
46歳
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左翼文芸家聯合編の「戦争に対する戦争」に「野薔薇」を寄稿す。10月「新興童話作家聯盟」の結成に参加。 |
1929(昭和4年) |
47歳
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10月、父(84歳)、母(76歳)ともに上京し、20日ほど滞在、東京見物をさせる。12月、自由芸術家聯盟を結成、機関紙「童話の社会」に童話と童謡の革新を期し寄稿。 |
1930(昭和5年) |
48歳
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杉並区高円寺の新宅に移る。 |
1931(昭和6年) |
49歳
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日本童話協会刊「童話研究」10月号は小川未明を特集。 11月「未明童話集」5巻完成と、未明生誕50年を祝し、記念祝賀会鈴木三重吉、蘆谷蘆村、吉江喬松氏らの発起で開かれた。 中国にて張暁天氏訳「未明童話集」全4巻が出版される。 |
1933(昭和8年) |
51歳
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長篇童話「雪原の少年」を「国民新聞」に連載。 |
1935(昭和10年) |
53歳
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1月20日、父澄晴死去(87歳)。 |
1937(昭和12年) |
55歳
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4月子供研究社より児童文学雑誌「お話の木」を主宰(翌年2月発刊)。 7月、母千代杉並、高円寺宅で死去(84歳)。 7月、突然吐血、健康に自信を失い禁酒宣言するも、じきに逆戻り。 |
1940(昭和15年) |
58歳
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郷里春日山に父母の霊碑完成。11月、妻と共に除幕式に臨み、帰途糸魚川に相馬御風氏をたずね、さらに長岡市、山田家の墓に墓参。 |
1941(昭和16年) |
59歳
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日本少国民文化協会の発足に参加。 |
1942(昭和17年) |
60歳
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還暦を祝福され「現代童話四十三人集」(フタバ書院)を贈られ、上野精養軒で祝賀会が催される。 |
1943(昭和18年) |
61歳
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全22巻の全集が計画されたが、空襲熾烈のため2巻のみにて終わる。 |
1944(昭和19年) |
62歳
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7月、前年は腕に、本年は足のくるぶしに膿腫を生じ入院、手術。 9月、少国民文化功労賞を受く。 本年より翌年にかけて空襲はげしくなるも、あえて疎開せず、老妻と家を守り終戦を迎える。 |
1946(昭和21年) |
64歳
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12月、第5回野間文芸賞を受く。 3月、児童文学者協会創立、初代会長になり、児童文学の再建につくす。 |
1950(昭和25年) |
68歳
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「小川未明童話集」前期5巻、刊行始まる。同27年6月、後期7巻刊行(講談社) |
1951(昭和26年) |
69歳
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3月、「童話をつくって五十年」を「文芸春秋」に発表。4月、童話全集出版祝賀会が児童文学者協会の主催で開かれる。5月26日、芸術院賞受賞。 |
1953(昭和28年) |
71歳
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11月、芸術院会員、文化功労者となる。11月、妙高山麓中郷村夕日ヶ丘に詩碑立つ。 |
1954(昭和29年) |
72歳
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6月、「小川未明作品集」(全5巻)講談社より刊行はじまり、翌年1月完結。 6月、雑誌「改造」に「童話と私」を発表。 |
1956(昭和31年) |
74歳
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11月、郷里春日山に詩碑建設され、妻、三男、次女と共に除幕式に出席。 |
1958(昭和33年) |
76歳
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11月、新版「小川未明童話全集」全12巻(講談社)の刊行開始、翌年4月完結。 |
1961(昭和36年) |
79歳
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5月6日、脳出血で倒れ、同月11日午後6時55分死去。 6月20日、早稲田大学大隈講堂で追悼記念講演会が開かれた。 |
1963(昭和38年) | 5月18日午後8時、妻キチ死去。 |
岡上鈴江著「父小川未明」新評論刊収録の年譜を元に一部表記を改めた。