明治40年、時事新報社が米国の新聞社の依頼に応える形で、大阪時事新報社他、全国各地の新聞社二十二社を巻き込んで、日本で初めての一般子女を対象とした美人コンクールを行った。協賛企業も現れ一等受賞者に対する18金ダイヤモンド指輪(300円相当)を始め総額3000円相当の商品が贈答されるという大規模なものになった。

審査は写真選考で、明治40年に全国各地の審査員による一次審査が行われ各地域5名ずつ、計215名が選抜、翌年二月二十九日に時事新報社にて第二次選考が行われた。審査員は洋画家の岡田三郎助、彫刻家の高村光雲を始めとする各界の時代を代表する十三名。

厳しい審査の末、一等は女子学習院中等部在学中、福岡出身の末弘ヒロ子(十六歳)、二等は宮城県仙台出身の金田ケン子(十九歳)、三等に栃木県宇都宮市出身の土屋ノブ子(十九歳)の三人が選ばれた。


一等受賞者 末弘ヒロ子
16歳(福岡県小倉市)

明治26年5月生まれの七人兄弟の四女。ピアノ、お茶、お花をたしなむ。 好きな食べものはさつまいもなどの野菜とうなぎ。甘いものが好き。コンクールへの応募は兄の独断で、本人に無断での応募であった。そのことを知ったヒロ子は「そんなことをしてはいやです。是非はやく取り戻して下さい」と泣いて頼んだという。

「兄がからかうから困ります。なにもあたらないように兄様にお願いしておきましたのに、一等にあたったなんぞって、私は困ります。彼の写真は一等か存じませんが、私は一等ではありません」 と語るヒロ子であるが、賞品の指輪を見ると「マァ大きなダイアモンド!」と目を輝かせたそうである。

しかし、一等の受賞はヒロ子にとって良いことだけではなく、自分の容姿を誇示することは生徒としてあるまじき行為と判断され糾弾されることになった。この態度を新聞側は批判したが、結局、ヒロ子は自主退学となった。


二等受賞者 金田ケン子
19歳(宮城県仙台市)

三等受賞者 土屋ノブ子
19歳(栃木県宇都宮市)
土屋ノブ子は三等を受賞したことにより、レート化粧品の広告モデルとして採用された。当時、化粧品の広告は芸妓がするものが相場で、深窓の令嬢が広告に出ることは衝撃的な出来事であった。

四等 尾鹿貞子
23歳(三重県飯坂町)
五等 竹内操子
17歳(東京市麹町区)
   
六等 森内ヨシ子
22歳(茨城県水戸市)
七等 鵜野露子
(東京市日本橋区)
   
八等 鷲見久枝子
22歳(東京市京橋区)
九等 中尾順子
21歳(東京市麻布区)
   
十等 池田政子
21歳(東京市麹町区)
十一等 内藤ヨシ子
20歳(東京市麹町区)
   
十二等 伊藤シゲ子
23歳(宮城県仙台市)
 

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